走る

 スーパーアスリート、すてきな超人達 

 回る
  

●スポーツで努力と工夫を続け、チャンスをつかみ、

 たくさんの人を感動させた、すばらしい超人達。

 世界中のたくさんの人達が、様々なスポーツを楽しみ、挑戦しています。

 1番は1人だけど、何か目標を決めて集中できると、間違いなく伸びられるよ。


《陸上》 走る
星レイモンド・クラレンス・ユーリー(陸上、1873〜1937年)
 米インディアナ州生まれ、小児マヒで下半身が動かせず車椅子生活
 足の訓練を続け、通常のオリンピックで史上1位の金メダル10個獲得。
 今は廃止された立ち高跳び(最高165cm)で、1900〜1912年まで4連覇。
 立ち幅跳び(最長347cm)も4連覇、立ち3段跳び(最高1057cm)は2連覇。

パーボ・ヌルミ(陸上、1897〜1973年)
 9個の金メダル。20年アントワープで1万m、個人クロスカントリー、団体クロスカントリー
 24年パリで1500m、5千m、個人クロカン、団体クロカン、3千m団体の5種目制覇。
 クロカンは気温36度でゴールわずか15人、死のクロスカントリーと呼ばれ、次回から中止。
 28年アムステルダムの1万mも金。

山田敬蔵(マラソン、1927年〜)
 秋田県大館市出身、158p、44s。
 53年2時間18分51秒でボストンマラソン優勝。
 当時世界最高記録とされたがのちに距離不足が判明し、参考記録に。
 54年大映により「心臓破りの丘」として根上淳主演で映画化。
 53年第2回別大マラソン2.29.05で優勝。56年第10回福岡国際マラソン2:25:15で優勝。
 フルマラソン完走300回以上、80才近い今も毎日30km走り、レースも10kmからフルまで年40回程参加。
 延べ30万km以上走破。大館市名誉市民で毎年4月にハーフなどの山田記念ロードレース大会実施。
 06年04月の110回ボストン・マラソンにも12年連続16回目の出場。
 70代の部で98年からいずれも3時間半前後で4年連続優勝。05年は4.10.11完走
 日本盲人マラソン協会の設立に貢献し、現在も協会顧問。
 食事にも気を配り、発芽玄米ごはん、野菜や豆の煮物、酢の物、ハム、卵、海草、
 らっきょう、ニンニク、納豆、黒胡麻豆腐、手作りヨーグルト、野菜果物ジュースなど完璧なバランス。

カール・ルイス(陸上、1961年〜)
 オリンピック金メダル9個、走り幅跳び4連覇。
 84年ロスで、100m、200m、走り幅跳び、4×100mリレー、88年ソウルで100m、走り幅跳び、
 92年バルセロナで走り幅跳び、4×100m、96年アトランタで走り幅跳び金。

ウサイン・ボルト(陸上、1986年〜)
 北京とロンドンで陸上100m、200m、4×100mリレーで連続の金獲得。
 100m9秒58(09年)、200m19秒19(09年)の世界記録保持。
 02年世界ジュニア選手権に15歳で優勝。翌年の世界ユースでも優勝、
 04年に200mで17歳でジュニア初の20秒切り19秒93を記録。
 その後故障が続き、脊椎側湾症で骨盤の左右非対称な動きも原因となったが、
 筋肉強化で克服。日本陸連科学委員会の解析では、最高速時点の歩幅が2.75m、
 100m最後の一歩が2.995m。

星ウイルマ・ルドルフ(陸上、1940〜94年)
 米テネシー州出身。貧しい家の22人兄弟の20番目、体重2kgの未熟児で生まれ、
 肺炎など色々な病気にかかり、4才の時、左足の小児マヒで歩けなくなった。
 母は貧しい黒人も診てくれる80km先の病院まで、週2度2年間バスで通い、
 医師の教えで、母と兄弟は足のマッサージを続けた。8才で補助具を付けて歩けるようになり、
 その後、矯正靴をはいて兄弟と毎日バスケットで遊び、12才でついに完治。
 スポーツ選手になることを決意し、中学ではバスケットのエースとして州記録を作った。
 州立大の陸上コーチに見出され、夏のキャンプに参加。
 16才の時、56年メルボルン五輪に出場して4×400mで銅メダル。州立大の奨学金も許可になった。
 200mの世界記録22秒9を作り、60年ローマ大会へ。100mを世界タイ11秒3で優勝、
 200mも優勝。4×100mのアンカーとして準決で世界記録、足首を痛めながらも金メダル。
 22才で引退し、教師と陸上のコーチになり、後に子供達のためのウイルマルドルフ基金を設立。
 ラジオやTVのスポーツ解説者もつとめた。
 「二度と歩けないだろうと医者は言った。でも母は、また歩けると言った。私は母を信じた。」

高橋尚子(マラソン、1972年〜)
 マラソンで11戦7勝、6連勝も記録。00年シドニー五輪金メダル。162cm、48kg。
 リクルートで小出監督の指導を受け、98年名古屋国際女子を日本最高記録で優勝。
 同年アジア大会をアジア最高記録で優勝。
 00年シドニー五輪金メダルで国民栄誉賞受賞。
 01年ベルリンで、女子初めての2時間20分を破る世界記録。
 05年6月からチームQ結成。2年ぶりの復帰レース東京国際女子優勝。
 07年右膝半月板を半分切除。08年引退発表。

星アルフレッド・オーター(円盤投げ、1936年〜)
 米ニューヨーク出身。193cm127kg。
 56年メルボルン五輪優勝、57年自動車事故に合うが、60年ローマ五輪優勝。
 64年東京は肋骨を骨折しながら優勝。68年メキシコとオリンピック4連覇。
 その後、幼かった娘2人とすごしたいと引退。
 航空会社管理職として働いたが、12年後43才でカムバック、
 80年全米陸上で2位に入り、幻のモスクワ代表にも選ばれた。
 復活後、69.46mの自己最高を記録。

星中尾友一(トライアスロン、19222年〜)
 50歳を過ぎてジョギングを始め、60歳の時胃ガンで3分2を切除。翌年からジョギング再開。
 その後、無農薬の自給自足生活で、種子・野菜・海草など27種ブレンドの玄米食を実践。
 64歳からトライアスロンに挑戦し、完走142回。
 91年68歳でロングミドル合わせ5週連続完走。びわ湖で12時間54分。
 05年石垣島トライアスロン(S1.5kB40kR10k)3:37:34。
 05年佐渡トライアスロン(S2kB105kR20k)11:11:36。
 05年全日本マスターズトライアスロン(S1kB30kR10k)3:35:32。
 07年レース引退。練習は継続。

ポーラ・ニュービー・フレイザー(アイアンマン、1962年〜)
 ジンバブエ出身の女性アイアンマン。アイアンマン・トライアスロン(S3.8,B180,R42.2)で
 世界選手権86,88,89,91〜94,96年と8度獲得。86〜04年に優勝24回、
 08年まで8時間50分24秒で世界記録保持。カリフォルニア州サンディエゴ在住

《サッカー》 リフティング
ペレ(サッカー、1940年〜)
 ブラジル出身、サッカー史上最高の選手。サッカーの王様。
 世界で唯一、3度のワールドカップ優勝。通算1363試合、1281ゴール。
 100m10秒台でヘディングも得意、左右の足を完璧に使いこなし
 パーフェクトバランスと言われた。人格も秀で人々から尊敬された。170cm。
 58年ワールドカップ初登場、準決勝フランス戦の後半わずか26分間でハットトリック達成。
 オファーが殺到し、ユベントスは白紙小切手を送ったが、ペレはブラジルにとどまった。
 99年、IOCから20世紀最高のスポーツ選手として表彰。

フランツ・ベッケンバウアー(サッカー、1945年〜)
 独ミュンヘン生まれ。バロンドール(欧州最優秀選手)2回受賞。
 54年W杯優勝の主将フリッツ・バルターに憧れ、サッカーを目指す。181cm、75kg
 66年英のW杯で大活躍、70年メキシコW杯準決勝イタリア戦で、
 後半ロスタイムに追いつき、延長戦前半勝ち越し、再び逆転。叉同点という凄まじい試合。
 ベッケンバウアーは延長戦直前に相手のタックルで右肩脱臼。
 テープで固定し延長戦を戦い抜いたが敗れ、その気迫は世界中に感動を与えた。
 2年後の欧州選手権で優勝しバロンドール獲得、皇帝と呼ばれるようになり、
 バイエルンでUEFAチャンピオンズカップ3連覇。74年W杯優勝。
 監督として86年W杯決勝進出、90年W杯優勝。
 バイエルン会長。ドイツサッカー協会副会長、06年W杯招致委員会会長、大会組織委員長。

ヨハン・クライフ(サッカー、1947年〜)
 オランダ出身、バロンドール3回受賞、愛称はフライングダッチマン、ジーザス、176cm、67kg
 やせ細っていたがストリートでサッカーをし10歳で地元のアヤックスに入団。
 17歳で一軍デビュー。次シーズンにリーグ得点王(33得点)
 チームは名将リヌス・ミケルスの下、ポジションを変えるトータルフットボールを完成させ、
 70/71シーズンから欧州チャンピオンズカップ3連覇。
 71/72シーズン3冠を達成し、ヨハン・クライフの名を高めた。
 73年、当時としては異例の金額200万ドルでバルセロナに移籍。
 クライフの加入したバルセロナは22戦連続無敗で、73/74リーグチャンピオン獲得。
 74年西ドイツワールドカップでは主将として準決勝ブラジル戦に勝利。
 この時のジャンピングボレーシュートは伝説となった。
 決勝西ドイツ戦でも活躍し、大会最優秀選手、同年のバロンドールも獲得。
 84年に引退、86年アヤックス監督に就任。
 88年バルセロナ監督、91/92シーズン欧州チャンピオンズカップ優勝。リーグ4連覇。
 心臓病で96年にバルセロナの監督を辞任。

釜本邦茂(サッカー、1944年〜)
 京都市出身。日本史上最高のフォワード。
 60年山城高校1年で国体優勝。62年高校選手権準優勝。
 63年から早大で関東大学リーグ4年連続得点王。4年時は天皇杯優勝(学生の最後の優勝)
 68年メキシコオリンピックで7得点し、得点王。杉山、宮本、八重樫などと銅メダル獲得。
 仏、西独、ウルグアイのクラブからオファーがきたが、日本でサッカーを続けることを決意。
 ネロソン吉村とのコンビで、弱小のヤンマーを成長させ、78年からプレーイングマネージャー。
 日本リーグ251試合出場、202得点、優勝3回、得点王7回。日本代表で59試合、51得点、
 ガンバ大阪初代監督。元参議院議員。日本サッカー協会副会長。


《テニス》
ロジャー・フェデラー(テニス、1981年〜)
 スイス出身。01年ウィンブルドンで大会4連覇のピート・サンプラスを破り、注目を集めた。
 03年ウィンブルドン初優勝。04年全豪、ウィンブルドン、全米の3冠、ATPツアー年11勝。
 07年ウィンブルドン5連覇、08年全米5連覇。09年全仏優勝、4大大会17勝、ツアー86勝(シングル)。
 世界ランク1位を08年8月まで237週続け、ナダルに明け渡した。
 ポーカーフェースでプレー、普段は優しくユーモアも。

ピート・サンプラス(テニス、1971年〜)
 米ワシントン出身。世界最高のオールラウンド・プレーヤー。
 90年19歳で全米優勝。4大大会14度優勝(男子歴代1位)。全豪2勝、ウィンブルドン7勝、全米5勝。
 6年連続世界ランキング1位、通算286週(歴代最長)。貧血症で30歳頃からは体力が低下。
 2年以上タイトルから遠ざかったが02年全米優勝、その後出場せず、03年全米で引退表明。

ビヨン・ボルグ(テニス、1956年〜)
 スウェーデン出身、4大大会優勝11回。ウィンブルドン5連覇。全仏6勝。
 74年18歳で全仏優勝。3年連続で赤土の全仏と芝生のウィンブルドンに優勝。
 対照的なコートを連続制覇した男子選手はボルグが最後。83年26歳で引退。
 ジミー・コナーズやジョン・マッケンローと男子テニスの黄金時代を築いた。
 両手打ちバックハンド、トップスピンのグラウンド・ストロークが得意。

ロッド・レーバー(テニス、1938年〜)
 オーストラリア出身。62、69年と2度の年間グランドスラム2度は史上唯一。
 63年プロ転向。当時はアマチュアだけグランドスラム大会だったため、
 オープン化されるまで出場せず、69年のオープン後、すぐに2度目の年間グランドスラム達成。
 全豪3回、ウィンブルドン4回など4大大会シングル11回。

熊谷一彌、清水善造(テニス、熊谷1890〜1968年、清水1891〜1977年)
 1920年清水がウィンブルドンに日本から初出場、決勝戦でチルデンに敗退。
 1920年熊谷がアントワープで日本人初の五輪メダル、テニス単複(熊谷柏尾)で銀。
 1921年熊谷、清水(同年世界ランク4位)、柏尾で、デビスカップ準優勝。
 清水は当時のチャンプ、チルデンとのシングルで2セット連取、
 第3セット、マッチポイントまで2ポイントと迫ったが、足の痙攣で逆転負け。
 他の日本人トップ選手に1933年世界ランク3位の佐藤次郎がいる。

セリーナ・ウィリアムズ(テニス、1981年〜)
 アメリカ出身。4大大会優勝21回。姉とのダブルスでも13回優勝。
 02〜03年と14〜15年にグランドスラム4大会連続優勝。ダブルスも09〜10年に達成。
 姉ビーナスと女子テニスにパワーテニスを持ち込んだ。ツアーシングル68勝、ダブルス22勝。  生涯獲得賞金6千万ドル超で、女子プロスポーツ選手史上1位。
 全豪6勝、全仏3勝、ウィンブルドン6勝、全米6勝。

シュテフィ・グラフ(テニス、1969年〜)
 ドイツ出身。4大大会優勝22回。88年ソウル五輪金メダル。フォアハンドの強打とバックのスライス。
 82年13歳でプロ入り。87年全仏優勝、91年まで186週連続世界1位。
 88年3人目の年間グランドスラム達成。WTAツアー107勝。世界1位377週は男女を通じ史上最長。
 赤土の全仏と芝生のウィンブルドンを連続制覇4度。
 01年アンドレ・アガシと結婚。全豪4勝、全仏6勝、ウィンブルドン7勝、全米5勝

モニカ・セレス(テニス、1974年〜)
 89年15歳でプロ入り、90年全仏でシュテフィ・グラフを16歳で破り、最年少優勝記録。
 91年史上最年少17歳3ヶ月で世界ランク1位。グラフの1位保持記録を止めた。
 90から全仏3連覇、91から全豪3連覇、91から全米2連覇。
 絶頂期の93年ドイツで対戦中にグラフのファンという暴漢に背中を刺され、2年以上試合から遠ざかる。
 95年復活し、全米オープン準優勝。96年全豪優勝。事件がなければグラフの成績を上回ったはず。

マルチナ・ナブラチロワ(テニス、1956年〜)
 旧チェコスロバキア・プラハ出身。75年にアメリカに亡命。4大大会シングルス18勝。
 左利きのサーブ&ボレープレーヤー。ウィンブルドン6連覇と最多優勝(9勝)、
 WTAツアーシングルス最多優勝(167勝)。

ビリー・ジーン・キング(テニス、1943年〜)
 アメリカのロングビーチ生まれ、女子プロテニスの地位向上と賞金引き上げを主導。
 全英6回、全米4回。シングルダブル合わせ4大大会優勝39回。
 62年、18歳のとき、当時の一人者マーガレット・スミス・コートを全英でくだした。
 67年は全英、全米でシングルス、ダブルス、混合ダブルスの三冠も達成。
 73年、女にまけるはずが無いと公言した元全米チャンピオンのボビ−・リッグスに勝利。

マーガレット・スミス・コート(テニス、1942年〜)
 オーストラリア出身、4大大会シングル優勝24回は男女通じて最多。オールラウンダー。
 全豪11回、全米5回、全仏5回、ウインブルドン3回

モーリン・コノリー(テニス、1934〜69年)
 米サンディエゴ出身。女性初のグランドスラマー。
 全英3連覇(52〜54)、全米3連覇(51〜53)、全仏連覇(1953,54)、全豪(53)で勝つが、
 絶頂期の54年、落馬による骨折で19歳で引退、癌で34歳の時亡くなった。
 160cmほどの小柄でLittle Moと呼ばれたベースラインプレーヤー。

国枝慎吾(車いすテニス、1984年〜)
 プロの車いすテニス選手。9歳の時、脊髄腫瘍で車いす生活になり。
 小6で車いすテニスを始め、06年世界ランク1位に。
 07年、車いすテニス男子シングルで、史上初ののグランドスラム。
 ロンドンパラリンピックで1セットも落とさないパーフェクト制覇。
 パラリンピックで、シングル金2、ダブルス金1。

 4大大会シングル19勝(英はダブルスのみ)、ダブルス19勝。



《ゴルフ》
タイガー・ウッズ(ゴルフ、1975年〜)
 米カリフォルニア出身。PGA賞金王6回、メジャー14勝。年収90億円はスポーツ選手の世界No1。
 188センチ、82キロ。生後9か月でゴルフを始め、2才の時TVでパッティングを披露。
 3才で9ホールスコア48を記録。 11才でハンディ2、13才でハンディ0、
 15才から全米ジュニア3連覇。18才から全米アマ3連覇。
 20才の96年にスタンフォード大中退、ナイキと600万ドル(7億円)で契約してプロに。
 PGAツアー11戦2勝して新人王。翌年21才でマスターズ優勝、計6勝しPGAツアー賞金王。
 APの年間最優秀アスリート賞を97,99,00年の3回受賞。
 タイガーは陸軍「グリーンベレー」の将校だった父が行方不明になった
 南ベトナム軍の戦友のニックネームを付けたもの。母はタイ人。

ジャック・ウィリアム・ニクラス(ゴルフ、1940年〜)
 米オハイオ州コロンバス出身、金髪でゴールデン・ベア、日本では帝王と呼ばれた。
 マスターズ6勝、全米4勝、全英3勝、全米プロ5勝、全豪6勝

ボビー・ジョーンズ(ゴルフ、1902〜1971年)
 アマチュアのまま、全米アマ5回、全英アマ1回を含むメジャー13勝。
 高校生から13年間ツアーに参戦し、わずか52戦で23勝。
 30年は7戦6勝。全米オープン、全米アマ、全英オープン、全英アマの4つを獲得。
 初の年間グランドスラマーとなったが、その年で引退。
 マスターズ創始者。オーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブのコース設計。
 ジョージア工科大卒、ハーバード大卒、弁護士で仏語、独語も堪能。

トム・モリス親子(ゴルフ、父1821〜1908年、息子1851〜1875年)
 1860年から開催された全英オープンで、父は1861,62,64,67年と4度優勝。
 息子も1868,69年,70年,72年(71年は中止)と4連続優勝。70年は36ホールで2位と12ストローク差。
 父オールド・トムは最年長46才の、息子ヤング・トムは最年少17才の優勝者。68年は2人で優勝争いをした。
 父はボールやクラブの製造、グリーンキーパー、コース設計者としても活躍。
 現在のカップは彼が水道管を埋めて使ったのが始まり。息子は若くして夭逝。

アニカ・ソレンスタム(ゴルフ、1970年〜)
 05年まで5年連続8回賞金女王、メジャー10勝。72ホール最多27アンダー、
 APの年間最優秀女性アスリート3年連続受賞。
 04年5月女子として58年ぶりに男子ツアーに出場。
 ストックホルム生まれ。米アリゾナ大留学、92年世界アマチュア選手権優勝、
 94年米ツアー新人賞。08年シーズンで引退。

キャシー・ウイットワース(ゴルフ、1939年〜)
 賞金女王16回。ツアー88勝。女性で初の百万ドルプレーヤー。
 65、67年にAP通信の年間最優秀アスリート受賞。
 最後の優勝は45才の85年ユナイテッド・バージニア・クラシック。

星ベイブ・ディドゥリクソン・ザハリアス(陸上&ゴルフ、1911〜1956年)
 20世紀前半の最優秀女性アスリート賞受賞。
 高校生でバスケ女子の全米選抜。水泳、ライフル、ボクシング、ソフト、テニスなどスポーツ万能。
 32年世界陸上で8種目出場、6種目優勝、4つの世界記録。
 同年ロス五輪に3種目出場、槍投げと80mHで共に世界新の金、走幅跳び銀(記録はトップタイ)。
 その後、高校時のバスケのバイト代でアマ資格剥奪。ハーモニカとダンスのショービジネスや、
 メジャーでのオープン戦などに出場。34年からゴルフを始めすぐ優勝するが叉資格剥奪。
 38年男子プロのロスオープンで予選通過、ペアになったプロレスラーのザハリアスと11ケ月後に結婚。
 43年アマ認定され17連勝。47年プロになり、49年パティベルグ達と米LPGAツアーを創設。
 53年ガンの手術を受け、不可能と言われながらもカムバック。54年は全米女子など5勝。
 しかし、55年に再入院、ガンの基金を設立しエキジビジョン活動等したが、56年没。
 1948〜55年にツアー31勝。全米女子オープン3勝。
 AP年間最優秀女性アスリート賞を最多6回受賞(32年陸上,45〜47,50,54年ゴルフ)。


《その他の競技》
マーク・アンドリュー・スピッツ(水泳、1950年〜)
 アメリカ。72年ミュンヘンオリンピックで7種目金メダル、全て世界新。
 100m自由形、200m自由、100mバタフライ、200mバタフライ
 400mリレー、800mリレー、400mメドレーリレー
 68年メキシコでも4×100mリレー、4×200mリレーで2個金

マイケル・フェルプス(水泳、1985年〜)
 米ワシントンDCの北にあるメリーランド州ボルティモア出身。
 2001年春、15歳9ヶ月で200mバタフライの世界記録を樹立。
 2004年アテネ五輪で8冠を目指したが、6冠に止まった。
 その後、飲酒運転で逮捕されたり、国内予選落ちや手首骨折などもあったが、
 2007年世界水泳で、200自由、100と200のバタ、200と400の個人メドレー、
 4×100と4×200フリーリレーで金メダル。
 2008年北京五輪で9日間で17レース、出場8種目全て金。うち7つは世界新。
 ロンドン五輪でも100mバタと200mメドレーで金2、リレー金2。
 五輪通算金メダル数も最多の18。ロンドン五輪で引退発表。

北島康介(水泳、1982年〜)
 平泳ぎ100m200m、アテネ・北京五輪で2種目連覇。共に世界記録保持。
 中2の時に、東京SCの平井コーチに見出され、
 日体大4年時インカレの100m・200m平泳ぎを学生新記録で優勝。
 2003年世界水泳で、100m200m共に世界記録で優勝。
 2004年アテネ五輪、2008年北京五輪でも2種目連覇。
 東京・西日暮里の実家「肉のきたじま」はメンチカツが有名。

グレッグ・ルガニス(飛び込み、1960年〜)
 アメリカ。76年モントリオール五輪高飛込銀、80年モスクワ不参加。
 84年ロサンゼルス五輪高飛込と飛板飛込で金。
 88年ソウルで練習中に飛び込み台に頭をぶつけて負傷したが、傷を縫い合わせた後、
 2大会連続で飛板飛込と高飛込の両種目で金メダル
 その後、ゲイとHIVを告白。俳優の他、執筆活動を続けている。

加藤沢男(体操、1946年〜)
 オリンピック金メダル8個、個人総合2、平行棒2、ゆか1、団体3
 68年メキシコ、72年ミュンヘン、76年モントリオール。

ラリサ・ラチニナ(体操、1934年〜)
 ソ連。夏冬の五輪を通じて個人のメダル最多18個(金9銀5銅4)。
 56年メルボルン、60年ローマ、64年東京の3大会で獲得。
 東京五輪以降、体操の女王はチェコのチャスラフスカに。

ソーニャ・ヘニー(フィギュアスケート、1912〜69年) 回る
 ノルウェイ出身。28年32年36年オリンピック3連覇、27年から世界選手権10連覇
 彼女からバレエのような振付けときらびやかな衣装が始まった。
 プロスケーターとなり、ハリウッド映画にも多数主演、
 タイロンパワーと共演したり、グレンミラーの音楽で踊り、コメディもある。

星イリナ・ロドニナ(フィギュアスケートペア、1949年〜)
 72年札幌、76年インスブルック、80年レークプラシッド五輪3連覇。
 1969〜78年世界選手権10連勝。出産で1979年世界選手権を欠場したが、
 翌年のレークプラシッド五輪で優勝し、プロに転向。
 69年から世界で4回優勝したパートナー、ウラノフとは
 分かれることがきまっていて、札幌大会でリンクの上以外は目も合わさなかった。
 ウラノフはライバルでもある札幌ペア銀のスミルノバと結婚。
 ロドニナは新しい年下のパートナー、ザイツェフと練習を重ね、
 オリンピックも世界選手権も勝ち、結婚した。

マイケル・ジェフリー・ジョーダン(バスケット、1963年〜)
 バスケットボール史上最高のプレーヤー、
 NBAシカゴブルズを6回の優勝に導いた。
 5度レギュラーシーズンMVP、6度ファイナルMVP、2度MVP3冠
 平均得点30.12点NBA歴代1位、通算得点30,652点歴代4位。身長198cm。

イチロー(野球、1973年〜) 打つ
 愛知県豊山町出身。本名は鈴木一朗。シアトル・マリナーズ。走攻守揃った日本の誇り。
 3才の時に父の宣之さんに赤い革の本物のグローブとボールをもらって野球人生がスタート。
 父親と一日も欠かさずにトレーニングを続け、少年野球チームに入団。
 5、6年生主体のチームの中で6才からレギュラー。
 愛工大名電野球部に入り、洗濯と練習のために毎朝3時起きを続ける。
 2年の時、交通事故にあい、ピッチャーを断念。ドラフト4位でオリックス入団。
 すぐに366で2軍の首位打者、2年目はハワイウインターリーグのベストナイン。
 この間、イチローのしなやかなバッティングフォームは山内打撃コーチ、土井監督と
 合わなかったが、2軍河村コーチと共に進化し、1軍新井コーチの理解も得た。
 3年目に仰木監督の下でレギュラーを獲得し、210安打を達成。
 385で首位打者とMVP、以後7年連続首位打者、3年連続MVP。
 95年は淡路大震災の神戸を勇気付けるリーグ優勝、首位打者、打点王、盗塁王。
 96年の日米野球で活躍し、メジャー参戦が目標になる。99年マリナーズキャンプ参加。
 01年メジャーのマリナーズに移籍、首位打者、盗塁王、ゴールドグラブ賞、新人王、MVP。
 04年、84年振りのメジャー記録262安打達成、首位打者。10年まで10年連続の200本安打とゴールドグラブ。

野茂英雄(野球、1968年〜)
 大阪港区出身。日米通算200勝。日本人メジャーリーガーのパイオニア。
 社会人のNOMO ベースボールクラブと米独立リーグ、エルマエラのオーナー。
 高校初先発の県予選で完全試合。新日本製鉄堺を経てドラフト1位で近鉄バファローズ入団。
 プロで4年連続最多勝・奪三振王。抜群の成績を続けるも怪我や鈴木監督の方針とも合わず、
 周囲の大反対の中、夢を追いかけ、95年ドジャーズ入団。
 選手会ストで人気下降気味だったメジャーをトルネード投法と大きなフォークで活性化した。
 オールスター先発投手。新人王、奪三振王2回、ノーヒットノーラン2回。

ベーブ・ルース(野球、1895〜1948年)
 本塁打714本、通算打率.342、打点2210
 本塁打王12回、打点王6回、首位打者1回、投手としても最優秀防御率1回
 ヤンキース在籍15年間で7度リーグ優勝、4度世界一の国民的ヒーロー。
 ヤンキース永久欠番3、左投左打、188cm98kg、メリーランド州出身
 少年時代は悪ガキで、7歳ごろ矯正学校に送られ、マシアス神父に野球を教えられた。
 15年、18勝8敗、打率.315、4HR。ワールドシリーズ優勝。
 16年、23勝12敗9完封勝利、防御率1.75で1位。ワールドシリーズ優勝。
 17年、24勝13敗、打率.325。
 18年、13勝7敗11HRで初の本塁打王。ワールドシリーズ優勝
 19年、9勝5敗、打率.322、114打点、29HR、本塁打王、打点王
 レッドソックスからヤンキースへトレード(バンビーノの呪い、RSは以後優勝できず)
 20年、打率.376、54HR(史上初の50本台)、137打点、本塁打王、打点王
    150四死球、盗塁14、長打率.847
 21年、打率.378、59HR、171打点、ヤンキース初のリーグ優勝。
 22年、打率.315、35HR、96打点、
 23年、ヤンキースタジアム誕生。
 23年、打率.393、41HR、131打点、ワールドシリーズ初優勝
 24年、打率.378、46HR、121打点
 25年、打率.290、25HR、66打点
 26年、打率.372、47HR、146打点
 27年、打率.356、60HR(34年間最高記録)、164打点

ジョナ・ロムー(ラグビー、1975年〜)
 ニュージーランド出身。195cm、120kg、胸囲116cm、腰囲り125cm、100m10秒8!の巨漢快速ウイング。
 94年史上最年少でオールブラックスに選ばれ、95年ワールド・カップでは
 相手をよけずにまっすぐ向かって行くスタイルで観衆を茫然とさせ、最多7トライの大活躍。
 イングランド戦ではマイク・キャットを跳ね飛ばし足下に倒してトライを挙げ、
 以後キャットはロムーのカーペットと呼ばれるようになった。
 ケタちがいのスピード、2,3人は引きずって突進できるパワー、タックル、バランスで生きる伝説となった。
 99年のワールドカップでも最多の8トライ。
 96年頃から腎臓障害に悩まされ、闘病とオールブラックス復帰を繰り返し、
 02年冬を最後に代表から外れ、人工透析の副作用で歩行もままならない状態となった。
 04年7月、腎臓移植手術を受け、復帰した練習中に肩を負傷、
 新たに英ウェールズの名門カーディフと契約し、05年12月、3年ぶりに実戦復帰。
 契約は来年6月までで、その後はNZに戻り、07年W杯での代表復帰を目指す。
 「ラックの下敷きになる。相手がスパイクで踏みつけてくる。
 それでも笑顔でポジションに戻る。そのためには精神的な訓練とコントロールが必要なのです。
 ラグビーによって、人生は規律と鍛錬だと学びました」

ジョー・モンタナ(アメリカン・フットボール、1956年〜)
 アメリカNFLの史上最高のQB。米ペンシルバニア州出身。  スーパーボウル4戦全勝(MVP3回)、モンタナマジックと呼ばれる華麗な逆転勝利で有名。  89年第23回スーパーボウルでシンシナティ・ベンガルズを相手に、  16-13で残り時間3分10秒。自陣8ヤードからモンタナは次々とパスを成功させ、  残り34秒WRジョン・テイラーに通してTD、49ersが20対16で逆転勝利。  スーパーボウルMVP3回82年85年90年、リーグMVP2回89年90年、  最優秀攻撃選手賞受賞89年、86年カムバック賞、プロボウル選出8回。

ウェイン・グレツキー(アイスホッケー、1961年〜)
 カナダオンタリオ州出身。史上最高のアイスホッケー選手。愛称グレートワン!センターで左利き。
 61個のNHL記録を保持。シーズン通算記録はゴール894、アシスト1963、ポイント2857。
 シーズン記録はゴール92、アシスト163、ポイント215。
 プレイオフ通算記録はゴール122、アシスト260、ポイント382。
 ハート記念賞(NHL最優秀選手賞9度(80年から8年連続)受賞。
 アートロス記念賞(最多スコアラー)10度、レディービング記念賞(フェアプレイ)5度、
 コンスマイス記念賞(プレイオフ最優秀)2度、レスターピアソン賞(選手が選ぶ優秀選手)5度、
 オールスター最優秀選手3度。
 82年アイスホッケー選手、カナダ人として初めてのAP年間最優秀男性運動選手選出。
 同年スポーツイラストレーテッドのスポーツマンオブザイヤー受賞。
 引退後はNHLフェニックス・コヨーテズの共同経営者兼ヘッドコーチを務める。

インゲマル・ステンマルク(アルペンスキー、1956年〜)
 オリンピック金2、世界選手権金3、
 ワ―ルドカップ86勝(回転40勝、大回転46勝)
 78/79シーズン大回転全10戦全勝。80年1月までW杯大回転14連勝。
 2位とのタイム差、79年ヤスナの大回転4秒06、82年キッツビューエルの回転3秒16は
 今もレコード。89年引退。身長180cm、体重73kg

ヤニツァ・コステリッツ(アルペンスキー、1982年〜)
 クロアチア出身。88年16才で長野五輪デビュー。複合8位入賞。
 02年ソルトレーク五輪で金3銀1。金3は男子56年ザイラー、68年キリーに続く3人目。
 何度も怪我と病気に苦しめられ、膝の手術も4度。
 04シーズンは休養したが、05年世界選手権は回転、滑降、複合で金。兄イヴィツァも回転で優勝。
 05W杯2位、06W杯1位。W杯年間総合優勝3度、通産30勝(〜06年4月)。
 06トリノ五輪は複合金、スーパーG銀。
 06ローレウススポーツ賞受賞。07年引退。
 回転が得意だが、5種目全て優勝のあるオールラウンダー。175cm、73kg。
 クロアチアには競技スキー環境はなく、貧しい中、6才から父・兄と古いバンで
 スキー場をめぐり、体育館やリフト小屋に泊まって練習を続けた伝説の持ち主。

ビョルン・ダーリ(クロスカントリースキー、1967年〜)
 ノルウェーの英雄。冬季五輪で通算最多8個の金メダル獲得。184cm、78kg。
 92アルベールビル、94リレハンメル、98長野で金8(個人金6)、銀4。
 W杯総合優勝6回、W杯通算41勝。世界選手権9度優勝。ダーリブランド販売。

ベンテ・スカリ(クロスカントリースキー、1972年〜)
 ワールドカップ女子総合優勝4度。42勝は最多勝利。01世界選手権で金3、03世界選手権で金2
 02年ソルトレイク五輪10kmクラシカル優勝、03年シーズンにW杯で14勝し引退。
 父は国際スキー連盟距離委員長で68年グルノーブル五輪リレー金メダリスト。
 12歳でスキーを始め、伝統走法のクラシカルに強い。173cm,63kg。

オーレ・アイナル・ビョルンダーレン(バイアスロン、1974年〜)
 ノルウェー出身。02ソルトレイクリのバイアスロン4冠。
 男子10km、20km、12.5km追い抜き、リレー。
 85年からバイアスロンを始め、94年リレハンメルオリンピックに初出場。
 98年長野で10kmスプリント、4×7.5kmリレーで銀メダル獲得。
 ワールドカップで02年-03年優勝、04年-05年優勝、
 世界選手権は03年金2個、05年金4個獲得。  06トリノ五輪は銀2銅1。

ゲオルク・ハックル(リュージュ、1966年〜)
 ドイツ。77年にリュージュを始め、80年代表入り。
 88年カルガリーのリュージュ1人乗りで銀メダル。
 92年アルベールビル、94年リレハンメル、98年長野で3連覇。
 02年ソルトレークで銀を取り、冬季五輪史上初の5大会連続メダリスト。

エリック・ハイデン(スピードスケート、1958年〜)
 米80年レークプラシッド大会で、500〜1万m5種目完全制覇。
 世界選手権総合も77〜79年の3連覇。妹のベスもレークプラシッド3000mで銅メダル。
 85年米プロ自転車選手権優勝。86年は米チームとして初のツールドフランス参加。
 医者の家に生まれ、自身も整形外科医となり、カリフォルニア大デービス校整形外科助教授。
 02年ソルトレークオリンピックで、米アイススケートのチームドクター。

リディア・スコブリコーワ(スピードスケート、1939年〜)
 ロシア。60年スコーバレー五輪、女子初めてのスピードスケート種目1500,3000で金。
 63年軽井沢の世界選手権では500m、1000m、1500m、3000mの全4種目制覇。
 64年インスブルック五輪でも全4種目制覇。冬季五輪金6は今も女子最多。

ショーン・ホワイト(スノーボードのハーフパイプ&スロープスタイル、1986年〜)
 米カリフォルニア出身。プロの最高峰、冬のXゲームで金6銀2。Slopestyle4年連続金。
 スーパーパイプ5年連続金。スケボとスノボで冬と夏のXゲームに出場する最初の選手。
 五輪ハーフパイプもトリノ、バンクーバーで共に圧勝。
 6才でスノボを始め、翌年から試合に出場し連戦連勝。家族でバンに寝泊りしながら遠征し、
 8才で12才以下国内選手権を5つ勝利。13才からバートンのスポンサーを受け、
 03年全米オープンSlopestyleチャンピオン。XゲームもスーパーパイプとW勝利。
 03年ESPY賞(ベストアクションスポーツ選手)受賞。
 04年XゲームSlopestyle勝利。ハーフパイプも予選1位だったが膝の怪我が悪化し未勝利。
 すぐ手術し半年リハビリ。05年XゲームSlopestyle優勝、
 05年スケボーのパナソニックオープンで優勝、夏のXゲームでも銀メダル。
 06年冬Xゲームで、スーパーパイプ&スロープスタイルのW優勝。
 米五輪選考会で5戦5勝、トリノ五輪本番のハーフパイプも圧勝。
 19才にして、自家用ジェット機で各国を移動、家3件とレクサスなど高級車3台も所有。
 日本で開かれたNIPPON OPEN、X-TRAIL JAMでも優勝。
 04年白いアルバムというスノーボード映画もリリースし、
 ホワイトコレクションと呼ばれる自分のスノーボードブランドも持つ。

中野浩一(自転車、1955年〜)
 福岡県久留米市出身。高校は陸上だが怪我で断念。父母共にも競輪選手。
 80年に競輪選手として初めて年間1億円突破。賞金王6回、1236回中1着666回。
 77年から1986年ま世界自転車選手権スプリントでV10。

星土田和歌子(車いすマラソン、他、1974年〜)
 高2の時、交通事故で車いす生活に。
 98年長野パラリンピックのアイススレッジ・スピードレースで1500m世界新など金2銀2獲得。
 車いすは04年アテネパラリンピック5千m金、フルマラソン銀。
 ホノルルマラソン6勝、ボストンマラソン5連覇(〜11)、  2010年はボストンとロンドンを2週連続優勝。東京マラソン6連覇。

スティーブン・レッドグレーブ(ボート、1962年〜)
 英、かじなしフォアでシドニー五輪まで5大会連続!の金メダリスト。
 21〜38才の記録で、後半は糖尿病の彼を、医者でもある夫人が支えた。
 01年、ナイト爵位を授かる。

星エレン・マッカーサー(ヨット、1976年〜)
 英ダービシャー出身。英女性の英雄。05年28才で単独世界一周世界記録達成。
 75フィートの3胴船(左右にフロート付き)で、4.2万キロを71日19時間18分33秒で走破。
 20年破られないと言われた仏人フランシス・ジョワイヨン氏の記録を32時間縮めた。
 8才でおばのヨットに乗って魅せられた。食事まで節約して3年貯金し小型ヨット取得。
 19才で21フィートヨットで単独英国1周。スポンサーを求めて渡仏。
 00年、Europe1 New Man STAR 大西洋横断レース優勝。
 01年、24才で単独世界一周レース、ヴァンデ・グローブで2位。
 02年、Route du Rhumnoを新記録で優勝し、MBE(男爵と同等)受勲。
 03年、大型ヨットの世界一周記録ジュールベルヌトロフィーに挑戦するがマスト破損で断念。

星 斉藤実(ヨット、1934年〜)
 東京浅草生まれ。50才でリタイアし、単独世界一周レースの最高峰、
 アラウンド・アローンに、60歳を越えて3回出場。
 リタイアの多い過酷なレースで3戦共完走。延べ航海50万キロ、地球7周。
 第6回アランド・アローンレース表彰式で「スピリット・オブ・アラウンド・アローン」の称号を与えられた。
 05年、71才で世界最高齢単独無寄港世界一周も達成。
 父や兄とでガソリンスタンドを経営、家業建て直しの為、1日16時間も働いてきながら、
 若い時は登山をし、ヨットは39才から。
 江ノ島のヨットクラブでディンギーを3年体験後、クルーザーに。
 その後の人生で世界中をクルージングしようと50才で引退。
 86年、52才でオーストラリアでレース艇「酒呑童子I」を建造。
 メルボルン大阪のダブルハンドレースに出場するが、破損とクルー離脱でリタイヤ。
 88年にオーストラリア一周レースに出場するが、心臓病悪化でリタイア。
 90年、オークランド・福岡レースに出場。部門3位。「酒呑童子II」建造
 シドニー・米ニューポートを単独航海し、BOC単独世界一周レース出場資格獲得。
 90〜91年、第3回BOC単独世界一周レース出場。クラス第3位(197日20時間)
 強風が吹き、高波の続くホーン岬や南氷洋では転覆もし、
 時に身体を舵輪柱に結びつけながら航海した。
 94年、BOCレーススタート地似向け、日本からチャールストンへ単独航海
 94〜95年、第4回BOC単独世界一周レース連続出場。
 クラス6位。終了後、アメリカ東海岸英国地中海インド洋日本を単独航海(地球連続2周)
 97年、BOCレース参加のため、日本オーストラリア南アフリカ英国を単独航海。
 98年、単独大西洋横断レースに出場、完走。
 98〜99年、65才、第5回アラウンド・アローン単独世界一周レース出場。
 203日で完走。クラス2で5位。これでレース引退を決める
 01年 帰路ケープタウン、タスマニア寄港。回航含め地球6周を記録。
 02〜03年、第6回アラウンド・アローンレースに本部スタッフとして参加。
 クラス2優勝者への銀杯"酒呑童子"杯を寄贈。
 05年、世界最高齢の単独無寄港世界一周を達成。
 搭載アルコールは、日本酒1本、焼酎3本、ウイスキー3本、ラム1本、ビール200本。
 座右の銘モンテーニュの「死は生に至る道なり」「事をなすは天にあり、事を計るは人にあり」
 ※第1回の単独世界一周ヨットレースは日本の多田雄幸さん
 (植村直己さん北極行サポート)がクラス2優勝。
 ※第6回アラウンド・アローンレースは白石康次郎さんがクラス2で4位。
  1967年生まれの彼は26歳で世界最年少単独無寄港世界一周。
  1998年、横浜サンフランシスコ間14日間で太平洋横断世界記録。

ラインホルト・メスナー(登山、1944年〜)
 8000m峰14座完全登頂。69年アイガー北壁で世界最短登頂記録(74年さらに大幅更新)。
 70年のナンガ・パルバットの予定外アタックで弟を亡くし、自身も凍傷で足の指6本切断。
 78年エベレストで初の無酸素登頂、80年エベレスト単独で無酸素登頂。
 86年8000メートル峰全14座完全登頂、90年徒歩で世界初の南極横断。

星 植村直巳(登山&冒険家、1941〜84年)
 兵庫県日高町生まれ、明大農学部&山岳部。日本人として初のエベレスト登頂、
 世界初の五大陸最高峰登頂。国民栄誉賞等、多数受賞。
 大学卒業後、4万円を持ってアメリカへ。労働許可がなくバイトをして国外退去。
 欧州に渡り、アルプスでもバイトをしながらアタックを始めた。
 65年、明大ゴジュンバカン遠征隊に参加し、ゴジュンバカンU峰登頂。
 66年マッターホルン単独登頂、キリマンジャロ単独登頂。
 68年アコンカグア単独登頂。アマゾン河約6千キロをイカダ下り。
 70年日本人初エベレスト登頂。マッキンリー単独登頂で世界初5大陸最高峰登頂。
 71年グランド・ジョラス北壁登頂。日本列島3千キロ徒歩縦断。
 73年グリーンランド3千キロ単独犬ゾリ行。74〜76年、北極圏12,000キロの単独犬ゾリ行。
 76年エルブルース登頂。78年世界初の北極点犬ゾリ単独行、北極点到達。
 80年厳冬期アコンカグア2度目の登頂。
 81年日本登山隊の隊長として冬期エベレストを目指すも強風で断念。
 82〜83年南極大陸3千キロ犬ゾリ走破とビンソン・マシフ登頂を狙うが、
 フォークランド戦争の影響で状況が整わず断念。
 84年世界初のマッキンリー冬期単独登頂。翌日、消息を絶つ。

山野井夫妻(登山家、泰史65年〜、妙子56年〜)
 世界最強の登山家夫妻。泰史氏は87年ヨセミテエルキャピタン南東壁ラーキングフィアー単独第3登、
 アルプスドリュ西壁フレンチダイレクト単独初登、
 88年バフィン島トール西壁単独初登、90年パタゴニアフィッツロイ冬季単独初登、
 91年パキスタンブロードピーク登頂、92年ネパールアマダブラム西壁冬季単独初登、
 93年パキスタンガッシャブルム2登頂、94年中国チョー・オユー南西壁単独初登、
 95年ヨセミテエルキャピタン南東壁、パキスタンレディースフィンガー南西壁初登、
 98年ネパールクスムカングル東壁単独初登、
 00年K2南南東リブ無酸素単独初登など国内外から世界屈指のクライマーと評価を受け、
 妻の妙子さんも世界トップ級の女性クライマー。
 02年秋、ヒマラヤのギャチュンカン北壁の単独登頂に成功したが、
 その帰路に雪崩に遭い、両手と右足の指計10本、妙子さんは手足の指全てを失う。
 ベースキャンプから軽装備で単独頂上を目指すアルパインスタイルの登山が評価され、
 02年度朝日スポーツ大賞、03年夫婦で植村直巳冒険大賞受賞。
 その後もトレーニングを重ね、05年7月ポタラ北壁完登。
 2人は奥多摩に住んでいるが、近くの氷川屏風岩などでのトレーニングの他、
 家の天井や梁にも多くのホールドを取付け、山に浸りきりのシンプルな暮らしをしている。

《格闘技系》 突き
ジョー・ルイス(ボクシング、1914〜81年)
 ヘビー級王座在位11年。陸軍入隊で4年ブランクがあるが
 25連続防衛(全階級で最高)。70戦67勝(53KO)3敗
 アラバマ州出身、褐色の爆撃機(The Brown Bomber)

シュガー・レイ・ロビンソン(ボクシング、1921〜89年)
 世界ウェルター級5度防衛、ミドル級通算5度王座。
 パワー、スピード、テクニック全て兼ね備えたパーフェクトなボクサー。
 201戦174勝(109KO)19敗6分1ND1NC。アマ85戦全勝(69KO)、プロ88連勝、デトロイト出身、

星 モハメド・アリ(ボクシング、1942年〜)
 蝶のように舞い、蜂のように刺す。華麗なフットワークのヘビー級チャンプ。
 元カシアス・クレイ。ローマオリンピック・ライトヘビー級金メダリスト。
 大会後18才でプロ入り。過激な黒人開放運動家マルコムXとつきあい、ブラックモスリムに入信。
 オレは偉大だ、ヤツを5ラウンドに倒す、といった発言も人気になる。
 64年ソニー・リストンからタイトル奪取。試合後の会見でモハメド・アリと名乗ることを発表。
 9回防衛したが、黒人差別への批判や信仰に従ったベトナム戦争の徴兵拒否で無敗のまま
 ライセンスとタイトルを剥奪された。
 3年半の試合禁止を経て復帰。ピークを過ぎたと思われていたが、
 74年ザイールで剛腕フォアマンを8回KOで下し、再度チャンプ。
 76年アントニオ猪木との異種格闘技戦も話題に。
 10度防衛後、78年、スピンクスに負けるもリターンマッチで奪回。
 81年、パーキンソン病のため引退。61戦56勝(37KO)5敗。
 体は震えるが意識は正常で、難病患者の救済や平和活動に参加。
 アトランタ五輪開会式で聖火を点灯。スポーツの範疇を超えるアメリカンヒーロー。
 ライバルだったフレージャー、フォアマンも五輪金メダリスト。

シュガー・レイ・レナード(ボクシング、1956年〜)
 5階級制覇。76年モントリオール五輪Lウェルター級金メダル。アマ145勝5敗。
 77年プロデビュー。79年WBCウェルター級王座。
 2度目の防衛戦でデュランに敗れたがリターンマッチで奪回。
 81年WBAJミドルを取り、2階級制覇。
 同年WBA王者トーマス・ハーンズとのウェルター統一戦で逆転TKO勝ち。
 スーパースターとなったが、網膜はく離で引退。
 2年後復活、KO勝ちして引退。3年後の87年、再度カムバックし、
 ミドル級のハグラーに判定勝ちして、3階級制覇。
 88年WBCのLヘビーとSミドルのタイトルを奪取。
 Sミドル級はハーンズと引き分け、デュランに判定勝ちと2度防衛し、引退。
 91年カムバックしたがノリスに完敗。97年41才で再びカムバックし、カマチョにTKO負け。
 40戦36勝(25KO)3敗1分。

ロベルト・デュラン(ボクシング、1951年〜)
 パナマ出身。貧しい母子家庭の9人兄弟に育ち、15才でプロデビュー。
 50才まで戦い続け、4階級制覇の「石の拳」
 72年WBAライト級王座獲得。12度防衛し、統一戦も勝利。強敵を求め2階級アップ。
 80年スーパースター、レナードからWBCウェルター奪取。レナードはプロ初の敗北。
 再戦には敗れた。83年WBA Sウェルター級奪取。
 同年統一ミドル級王者マービン・ハグラーに挑戦し、小差判定負け。
 翌年夏、ハーンズに生涯初のKO負け。
 89年38歳でWBCミドル級を獲得し、4階級制覇。
 同年、レナードとの再戦で判定負け。 その後も元世界王者などと戦い続け、
 95年IBCのSミドル獲得。98年47歳でWBAミドルに挑戦し3回TKO負け。
 交通事故で重傷を負い、01年50才でついに引退。120戦104勝69KO16敗。

ファイティング原田(ボクシング、1943年〜 )
 世界フライ級、バンタム級の二階級制覇。驚異のラッシングパワー。
 フライ級奪取後、8連続KO防衛中の黄金のバンタム、エデル・ジョフレに挑戦しタイトル奪取。
 4度防衛後、タイトルを失い、次にWBCフェザー級挑戦。
 タイトル戦で3度ダウンさせるも不可解な判定負け。再戦はKO負けし引退。
 63戦56勝(23KO)7敗。日本プロボクシング協会会長、ファイティング原田ジム会長。
 ボクシングの殿堂に顕彰されているただ一人の日本人。
 階級が少なかった頃の2階級制覇で、フライ級は分裂前、バンタム級はWBC、WBA共に公認。
 ライバルのジョフレは後にWBCフェザーも獲得したが、負けは生涯で原田戦だけだった。

山下泰裕(柔道、1957年〜)
 世界選手権+95kg級3連続優勝(79,81,83年,81年は無差別級も)、
 ロス五輪無差別級優勝、
 全日本9年連続優勝(1977〜1985)、1985年203連勝で現役引退。

谷亮子(旧姓田村、柔道、1975年〜)
 世界柔道6連覇、産休後も優勝し、金7個。五輪も2連覇、48キロ級。
 五輪は最高で金。最低でも金を実現。
 田村亮子でも金、谷亮子でも金、ママでも金も実現。

野村忠宏(柔道、1974年〜)
 オリンピック60kg級96,00,04,3連覇、
 97世界選手権優勝、全日本選抜体重別選手権5度優勝
 奈良県出身。6歳のとき柔道を始める。祖父は柔道師範、
 父は金メダリスト細川を育てた天理高柔道部監督、叔父はミュンヘン金メダリスト。
 ミキハウス所属。柔道五段。得意技は背負投。身長164cm、体重62kg。
 04年、紫綬褒章、日本スポーツ賞大賞受賞。

イングリッド・ベルグマンス(柔道、1961年〜)
 ベルギー生まれ。80年の第1回世界選手権から86年まで無差別級4連覇。
 72kg級で84年と89年に優勝。公開競技だった88年ソウル五輪72kg級も優勝。
 90年ベルギー人柔道家と結婚し引退。ベルギーオリンピック委員会の選手委員会代表。

アレクサンダー・カレリン(アマレス、1967年〜)
 グレコ130キロ級で、世界選手権9連覇。五輪3連覇、
 1987〜2000年まで国際大会で13年間無敗。
 ロシア下院議員。出生時7千g。レスリングは13才から。

吉田沙保里(アマレス、1982年〜)
 父が自宅でレスリング道場を運営、3歳でレスリングを始め、
女子55kg級で、五輪3連覇、世界選手権と合わせ世界14連覇。
霊長類最強といわれた男子レスリング重量級カレリンの13連覇を抜き、 国民栄誉賞。

エメリヤーエンコ・ヒョードル(サンポと総合、1976年〜)
 97年サンボヨーロッパ選手権優勝、02・05年世界コマンドサンボ優勝、
 01年リングス王者、リングス10戦9勝(9KO)1TKO敗(〜05年)、  07サンボ世界選手権優勝。
 プライド王者、プライド15戦14勝1NC、182cm103kg、ウクライナ出身。

五味隆典(総合格闘技、1978年〜)
 神奈川出身。木口道場所属。プライドのライト級王者。10戦10勝8KO(〜05年)。
 173cm73kg。98年修斗でプロデビュー後5年無敗、佐藤ルミナにも勝ち、修斗ウェルタ−級王座。
 03年連敗するも、PRIDE参戦後は憧れの桜井マッハ速人にも勝ち10連勝。
 須藤元気と古い友人で今も共に練習。

ネド・ナジ(フェンシング、1894〜1940年)
 イタリア出身。五輪金6個。1912年五輪でフルーレ金。
 軍隊勤務で第一次世界大戦を経験後、
 1920年五輪でフルーレ、サーベル、団体のフルーレ、サーベル、エペで金。
 父はフェンシング教師、弟も五輪銀メダリスト。


《乗馬、サーフィン、バイク、車》
西竹一(馬術、1902〜45年)
 バロン西。32年ロスオリンピック馬術大障害金メダリスト。
 オリンピックのメインイベントとして閉会式前に行われた馬術の大賞典、障害飛越競技で優勝。
 日米関係の微妙な時期だったが、愛馬ウラヌスとの「We Won」のコメントに、会場がわきたった。
 高級車パッカードのオープンカーを乗り回し、英語が堪能でおしゃれでさわやかな本物の男爵、
 バロン・ニシはハリウッド女優ともデートを重ね、
 ロスの名誉市民やサンタアニタ競馬場の終身名誉会員にもなった。乗馬靴はエルメス。
 外務大臣で男爵の西徳二郎の三男として生まれ、
 10才の時に父が他界して男爵を継ぎ、麻布の土地1万坪など莫大な財産も相続。
 14、5歳の頃にはカメラ、銃、ハーレー、パッカード、モーターボート、馬術などを楽しんでいた。
 学習院初等科から府立一中、陸軍幼年学校、陸軍予科士官学校、陸軍騎兵学校に進み、
 30年騎兵隊の先輩の推薦でイタリアにいたウラヌスを購入。各地の試合を転戦した。
 ベルリンオリンピック後、騎兵学校の教官、戦車隊長。丸刈もりせず、外国通のため冷遇され、
 45年3月21日、第二次大戦末期の硫黄島で米軍に包囲され、帰らぬ人に。

ケリー・スレーター(サーフィン、1972年〜)
 米フロリダ州ココアビーチ出身。世界チャンピオン7度。WCT通算優勝31回。
 92年,94〜98年優勝の後一時引退。02年復活し、03年2位,04年3位,05年優勝。
 05年はタヒチ、フィジー、カリフォルニア、南アフリカと4回優勝。
 タヒチのファイナルでは史上初のパーフェクト20を記録。
 002〜04年連続チャンピオンのマーク・アイアンズを僅差で下した。
 チャンピオン最年少20才と最年長33才の記録ホルダーでもある。
 サーフィンのビデオやDVD等多数あり。彼の名前がついたTVゲームも。

レイン・ビーチリー(サーフィン、1972年〜)
 シドニー出身。98〜03の6年連続女子世界プロサーフチャンピオン。WCT通算26勝。
 苦しい環境に育ったが、子供の頃はサッカーとテニスを続け、16才からプロサーフィンに挑戦。
 80年代のトップサーファー、Ken Bradshawのコーチと支援を受け、
 ビデオや映画出演も多数。

バレンティーノ・ロッシ(バイク、1979年〜)
 イタリア出身。182cm、59kg。
 96年17才でGP参戦し、125で9位、97年125チャンプ、
 98年250で2位、99年250チャンプ、
 00年500で2位、01〜05年500で5年連続チャンプ、08年09年もチャンプ。
 加藤大治郎が生きていたら良いライバルになったはずだが。

マイク・ヘイルウッド(バイク、1940〜1981年)
 イギリス出身、500で4連覇、計9回のチャンプ。「マイク・ザ・バイク」と呼ばれた
 250で61,66,67(ホンダ)チャンプ、350で66,67(ホンダ)チャンプ
 500で62〜65 (MVアグスタ)チャンプ。 4輪のF2でも72年チャンプ。
 F1にも挑戦し、最高2位、ファステストラップ1回。

ジャコモ・アゴスチーニ(バイク・ロードレース、1942年〜)
 イタリア出身。500で7連覇、計15回のチャンプ。
 500で66〜72,75(MVアグスタ、ヤマハ1)チャンプ、350で68〜74(MVアグスタ、ヤマハ1)チャンプ

ステファン・エバーツ(バイク・モトクロス、1972年〜)
 ベルギー出身。父ハリー・エバーツもモトクロス世界チャンピオン。
 4歳から乗り始め、15歳でベルギーのジュニアチャンピオン。
 16歳で世界選手権デビュー。91年125cc世界チャンピオン。
 95〜97年3年連続250ccチャンピオン。99、00年は怪我で成績を残せなかったが、
 01年から、5年連続タイトル獲得。世界選手権87勝、9度チャンプは共に史上最多(〜05年)。

ドギー・ランプキン(バイク・トライアル、1976年〜)
 イギリス出身。188cm・82kg。97年〜03年の7年連続ワールドチャンピオン。
 トライアルの王者。04年2位,05年3位。
 04年彼を破って新チャンピオンになった日本の藤波貴久は05年再び2位。

セバスチャン・ローブ(ラリー、1974年〜)
 フランス人ラリードライバー。2012年まで世界ラリー選手権9連覇、通算75勝。
 仏レジオンドヌール勲章受賞。12年エックスゲームズのラリークロス競技でも圧勝。
 12年9月で本格参戦引退を発表。

ステファン・ペテランセル(ラリー、1965年〜)
 パリダカールラリー2輪6勝、4輪2勝(〜05年)、仏の英雄。
 エンデューロの最高峰インターナショナルシックスデイズエンデューロでも4勝。
 パリダカ4輪では、日本の篠塚建次郎1勝、増岡浩2勝(〜05年)

アリ・バタネン(ラリー、1952年〜)
 フィンランド出身、81年WRCチャンピオンでWRC10勝、パリダカ4輪4勝。

ミハエル・シューマッハ(カーレース、1969年〜)
 ドイツ出身、F1チヤンピオン7回、94,95,00〜04
 F1出走回数250、優勝91、ポールポジション68、ファステストラップ76(〜09年)

ファン・マヌエル・ファンジオ(カーレース、1911〜1995年)
 アルゼンチン出身。F1世界選手権51,54〜57年チャンピオン。
 5度目は46歳で歴代最年長。52年はテスト中の事故で1年間休養。
 他に56,57年セブリング12時間優勝など。F1は50年に開始。



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